命を賭して、戦う。
国共内戦後まもなく帰郷した人民志願軍・第9兵団 第7中隊長の伍千里(ウー・ジン)は、兄の百里が戦死したことを両親に報告する。戦争による軍の手当で彼は、両親に家を建てることを約束した。しかし中国が朝鮮戦争に参戦し、彼の休暇は取り消される。弟の万里(イー・ヤンチェンシー)は一緒に行きたいと言うが、千里はそれを許さなかった。
おりしも1950年9月15日。朝鮮戦争に介入した米軍を中心とする国連軍が仁川に上陸。前後して米空軍は敵の全地域を絨毯爆撃し、その脅威は中朝国境付近にまで迫っていた。
千里が戻った第7中隊は、前線に無線機を届けるように指示を受けた。そこで兄を追って入隊した万里の姿を見つけ、彼は愕然とする。しかし万里の揺るがぬ意志を目の当たりにし、千里は彼に銃を渡すのだった。
だが彼らは列車での移動中に爆撃され、第7中隊は徒歩での移動を余儀なくされる。しかも隊は巡回中の米軍機と遭遇。兵士たちは遺体をよそおうも、機は容赦なく銃撃。万里と親しかった仲間がこの空爆で命を落とし、戦争の非情さを知るのだった。
第7中隊は前線で束の間の休息をとるが、ほどなく長津湖に帰還するよう命令がくだる。しかし氷点下での行軍は過酷で厳しく、物資不足が兵士たちを苦境へと陥れる。さらには米軍の探知機が総司令部の場所を確認し、戦闘機で基地を爆撃する。そんな中、司令室にある重要な地図を取りに向かった一人の兵士が、被弾して命を落とす。その人物は劉という偽名で従軍していた、毛岸英だった。
岸英を失った悲嘆に暮れる間もなく、米軍への総攻撃が決断され、体制を立て直した志願軍新司令部は各軍を配置させ、第7中隊もそれに従った。そして11月27日の夕刻、長津湖を陣地とする、米第31歩兵連隊の掃討作戦が開始された。
かくして、中国人民志願軍と米軍による「長津湖の戦い」の火蓋が切って落とされたのだ——。